
Profile
笹原宏美 HIROMI SASAHARA
ファッションコンサルタント
オンワード樫山に総合職で入社。20年間勤務。40歳の時、モーレツな仕事がたたり病に倒れたことがきっかけで自主退職。直後に東日本大震災が発生。
もう二度とファッションの仕事はしないと決めていたが、被災した女性のファッションを変えると、同時にみるみる元気になっていく様子に感動。
2012年 ファッションコンサルタントとしてフリーで活動を開始する。
仙台を拠点に、東京、大阪、名古屋、福岡にて、これまで2000人のファッションコンサルを行う。
2019年 台風19号で実家が被災。親の介護が必要になり仕事を休止。田舎の実家との二拠点生活をスタート。
2024年 仕事に復帰。現在、休職中にハマった有機野菜作りをしながら、半農半ファッションの二拠点生活を継続中。
趣味は、全国の温泉巡り、神社巡り。花生け(古流師範)
MY STORY (はじめに)
人生を振り返った時
「ああ、あの出来事が大きなターニングポイントだったな」と思うことがあります。
それは大抵ネガティブな出来事で、そこで自分がどんな選択をするのかで
人生が大きく変わってくるようなことなのです。
現状維持を選ぶのか? それとも、これまでとは違う生き方に舵を切るのか?
ぐずぐず悩む状態がMAXになると
なぜか目に見えない力が「こっちの道だよー」と行くべき道を示してくれました。
私はそれを Calling(魂の声)と呼んでいます。
その声にに従えば、スルスルと人生は良い方向に勝手に動いていくし
声を無視し続けると、ネガティブな出来事が何度も起きてしまう...
みなさんもきっと、そんな経験があるんじゃないでしょうか。
Callingに従うのには勇気がいります。
大抵は新しいことに挑戦するよう迫られますから。
でも、いざ未知の世界に飛び込んでみると、いつだって新しい人生の扉が開きました。
そんな私のマイストーリーを、どうぞ読んでみてください↓

MY STORY
1968年 宮城県生まれ。
山間にある自然豊かな家で育つ。本ばかり読んでいる父、お手製の服を作ってくれる専業主婦の母、庭づくりに精を出す祖父、7歳上の姉の5人家族。
会話のない家で、いつも孤独だった。話し相手の大きなケヤキの大木が、容赦なく切られた時には心にぽっかり穴が空いた。
<Calling1 20歳で父が逝く>
大学時代、父が病で発覚半年後に他界。衝撃を受けるとともに、子供の頃から自分の気持ちよりも、父にどう思われるかを気にしてきた。これからは自分の人生自分次第。大人の自覚が芽生えた。
<Calling2 アパレル業界へ>
将来何がしたいかわからず、就活に出遅れる。たまたまバスの中でアパレル会社を訪問した人の話を耳にし、その会社を受けにいく。元々内気なのに、勝負をかけて白スーツで最終面接に臨む。まさかの合格。
(株)オンワード樫山に総合職で入社。
<Calling3 病に倒れる>
モーレツな仕事が祟り、脊髄内腫瘍を発症。難しい手術で、失敗したら車椅子、トイレも自力で出来なくなる可能性を告げられる。40歳で手術。奇跡的な回復を遂げた。
会社を辞めることにしたが、今の安定した生活、年収を捨てられず、2年間悩み続ける。結局取引先の偉い人を激怒させ、大トラブル発生!それが会社人生終了のゴングだった。
会社に評価されたくて、「ありのままの自分」を否定し、別の自分になろうと頑張り過ぎる私に、Callingは「その生き方間違ってるよー」と何度もサインを送ってきた。
もう二度とファッションの仕事はしないと決め、20年勤務した会社を自主退職する。
1週間後、2011.3.11東日本大震災発生。
あまりの被害の大きさに、人を癒すセラピストになろうと決めた。1年間かけて国内外を旅しながら、資格を取ることに専念。
<Calling4 メンターと仲間との出会い>
自分探しの旅の途中、今のメンターと仲間に出会う。真理を学び始めた。魂の声を聴いていくプログラムの中で、あたたかなつながりを得て、閉じていたハートが少しづつ開いていく。
<Calling5 東日本大震災で被災した女性との出会い>
東日本大震災で被災した女性から仕事の依頼が入る。見た目を変えると同時に、女性がみるみる元気になっていく様子に感動。ファッションの道に戻ることを決めた。
2012年、ファッションコンサルタントとして、フリーで活動を開始する。
2016年、NHKの情報番組にファッション講師として1年間出演。事業が全国規模へ。
ブログと口コミだけで、日本全国からクライアントが会いにきてくださるようになる。
<Calling6 台風19号で実家が被災>
2019年10月 台風19号が実家を直撃。母と命からがら逃げる。これまで結局他人事だった自然災害。翌朝、津波が引いた後のような家の姿に愕然とする。
被災のショックから、母がまさかの認知症に。母のために田舎の実家を修繕し、二拠点生活を始めた。
コロナ禍でもあり、全国を飛び回っていた生活が一変する。初の専業主婦体験。実家の復旧と親の介護だけの日々に、苛立ちが募ってくる。
出口が見えない苦しさに、ただ母と楽しく暮らそうと思った。認知症であっても「ありのままの母」を丸ごと愛そう。母が生きてるだけでよし。仕事を辞めてもいいと腹を括る。
<Calling7 いきなりの急展開>
2023年6月 コロナに罹る。母のケアをしてくれる場所はなし。誰も助けてくれない。39度の高熱を出しながら、家事と介護を10日間こなす。
張り詰めていた糸がぷっつり切れ、回復後、3年半にわたる母の介護を姉にバトンタッチした。
2024年、一度は諦めかけたファッションの仕事に復帰。
休職中にハマった有機野菜作りをしながら、今も二拠点生活を継続中。
月に一、二度、母を田舎の家に連れ出し、一緒にいる時間を楽しんでいる。
<未来への展望>
私は今を生きている。水害でたくさんのものを失ったが、私はちっとも損なわれてはいない。家族もお陰様で元気だ。今、生きてるだけで幸せ。何気ない日常が愛おしい。
人生いろんなことが起こるけど、私の人生は楽しい!
「私にとって何が大事で、どんな生き方がしたいのか?」
人生のターニングポイントで、私の魂はいつもグイグイ問いかけてくる。
水害と介護では、頑張らないこと、自分を大切にすること、「ありのままの自分」で生きることが幸せんんだと、分からせてくれるようなハードな事象が続いた。
私は人に育まれ、自然に育まれ、2つに支えられて生きている。
怒りを手放せずにいた時、ずっとそばに居続け、私の最高の未来を、私以上に信じてくれる友がいた。
働いていない自分には価値がない...との思いが湧いてきた時、太陽に向かって迷いなく伸びていく植物たちの姿に、「ただ生きる」ことの素晴らしさを教えてもらった。
愛を受け取り、安心してようやく
私はありのままでOK
私は生きているだけで価値がある
と心から思えるようになった。
ひとりではきっと立ち直ることはできなかっただろう。
Callingに従い、未知の世界に入っていくたび、私は少しずつ承認欲求を手放し、魂が望む生き方ができるようになり、それは今も続いている。
Callingに導かれ私はまた新しいファッション人生(第3幕)を歩み始めた。

私のテーマは「頑張る」を手放し
「ありのままの自分」で楽しく生きること

ファッションの語源は、ラテン語のFacio(ファクティオ)
元々の意味は、「流行」でも、「服飾」でもなく、ただ「創ること」
魂が望む人生を、未来の自分を
私たちは創ることができる。
ファッションは一番簡単な自己変容。
あなたの人生に迫るきびしいCallingを、チャンスに変える力となる。
新しい世界の扉が開け、私たちの人生はどんどん楽しいものに!
無視すれば、Callingはよりネガティブで厳しいものになり、しかも形を変えて何度でも続いていく。
アセンションの今、あなたがCallingにどう答えていくかが、また誰と一緒にいるかでも、人生が劇的に変わっきます。
私と出会ってくださるあなたが、人生の節目で新しい一歩を踏み出すのが怖い時、私はあなたの人生に寄り添い伴走したい。
私の友がしてくれたように、あなたが最高に輝いている未来を信じ、一緒に喜びあいたい。
「ありのままの自分=本当の自分」は、全ての道の出発点。
自分にかけた制限を外していけば、その先に必ず「本当のあなた」がくっきりと現れてくる。
まず「自分を知る」ことからスタートです。古い価値観を手放し、他人軸から自分軸へシフトしていきましょう。
「Future Self」未来のハッピーなあなたは、自分で創ることができる!
自由自在にファッションを変えながら、いつだって「なりたい私」を創り、最高に幸せな未来を生きていきましょう。
あなたがCallingに導かれ、私と出会ってくださることを楽しみにしています。
2025年 笹原 宏美

オンワード時代の職歴
(株)オンワード樫山に総合職で入社。20年間勤務。
ほぼ全てのレディースブランドを担当。
キャリアブランドを中心に、ヤング〜ミセス、大きなサイズ・小さなサイズ、インポートブランド、セレクトショップなど幅広い経験を積む。
主な業務は以下の2つ:
1. 商品仕入れ(億単位)
シーズン毎に億単位の商品仕入れ、各店舗への配分、商品コントロールを行う。
2. 店舗運営(5〜10店舗)
予算管理、店舗運営、販売スタッフ採用・教育など。
仕事内容の魅力
・商品が企画され、店舗に並ぶまでの全過程に関わり自分が携わった商品がお客様に届く喜びを感じた。
・担当ブランドが変わるたび、ファッションに応じて自分自身も変化した。制限がなくなり、視野を広げる経験が得られた。
店舗運営の特徴
・北は青森から、南は北関東までの広いエリアを担当。地域ごとの特性を活かした店舗づくりを推進。
・新規店舗オープンの際には、売り場のレイアウト設計や販売ディスプレイの工夫に注力。ブランド認知を高め、顧客の新規獲得、リピーターを増やしていった。
モチベーション
販売スタッフが「売れる」喜びを感じられる服づくり、環境づくりを目指した。
スタッフの笑顔や、チームで売上目標を達成する充実感をエネルギー源として働いていた。

担当したレディースブランド
総合職(営業職)としての私の仕事は
① 担当店舗の運営
② 商品仕入れ(モノ作り)
①については、オンワードのレディースブランドの全てを担当。
(みなさんご存知の、23区、組曲、J-PRESSなどを含む)
② 商品担当(モノ作りと仕入れに関わった)について、主だったものはこちら↓
*モノ作りに反映させるため、週末に店舗をまわり、接客しながらお客様の声を直に聞いた。
大きなサイズ・小さなサイズ
アミエル(今はない)
23区L・23区Sなど
普通サイズの服が着られないお客様にも、おしゃれを楽しんでもらいたいと、着痩せして見える服やコーディネイトの仕方などを徹底研究。どんな人にも魅力があり、似合う服が必ずあると伝えたかった。
会社でNo,1のベテラン販売員さんから、接客スキルをみっちり仕込まれる。
お金持ちマダムブランド
MERANGE(今はない)など
ベテラン店長との付き合いで、1着100万を超えるコートを軽くオーダーしていくお客様が何人もいることに驚いた。極上の素材がどんなものか、肌で感じる体験を重ねていく。その後、素材フェチになる。
キャリアブランド
ICB
20代後半に担当。ブランドが得意なパンツスーツを着ただけで、背筋がシャンとし、デキる女になったような気がした。ジャケットやパンツはシルエット次第で、1.5倍増しにスタイル良く見えることを知った。すらっと見える上下のコーデバランス、最高に脚長に見えるパンツ丈の直しなど、こだわりが増した。バランスフェチになる。
ライフスタイル型ブランド
ICB relax(今はない)
オンのICBに対して、オフのICBrelax。生活雑貨や下着まで扱う。イタリアの高級下着ブランド「ラ・ペルラ)を愛用していた私が、綿のカジュアルな下着をつけてナチュラルテイストの人になった。オンだけでなく、オフの時間を充実させる、美しいライフスタイルを意識するようになる。
セレクトショップ
NAVE(今はない)
30代半ば、オンワード初のセレクトショップを担当。きれいめなICBから個性的なファッションの世界へ。海外デザイナーが作る癖のある品々に、一気におしゃれ心が開眼。ヤンキーに見られそうな背中に刺繍の入った服、ゴツメなアクセサリーを首と指にジャラジャラつけた。
オリジナルブランドでは、サイズがバカみたいに小さ過ぎて全く売れず...ダイエットして45Kgまで痩せて、ピチピチのTシャツ(子供サイズ)をなんとか着て試着販売。全て売り切った。
プチプラ・ヤングブランド
(郊外SC向け)
DIP DROP(今はない)
30代半ば、10代向けヤングブランドを担当。若いスタッフに教わりながら、プチプラカジュアルにトライ。ハイヒールが定番の私が、初めてコンバースのスニーカーを履き、スニーカースタイル目覚めた。
ヤングママブランド
(ファッションビル向け)
anySIS(組曲の妹ブランド)
小さな子供を持つママが、おしゃれで、ジャブジャブ洗える服を求めてること、普段着とは違うオケージョン(入学・卒業、結婚式のお呼ばれ)用に何を着たらいいか?悩むママたちがたくさんいることを知った。買いやすいプライスで、手入れがしやすく、高見えする服を、本部に提案しながらモノ作りに反映させた。
インポートブランド(NY)
MMK
(マイケル・マイケル・コース)
NYコレクションの常連「マイケル・コース」のセカンドライン。(今国内では、バッグや財布が人気のブランドでお馴染みに)シンプルながら、ラグジュアリーな雰囲気のあるこのブランドが大好きだった。インパクトのあるバッグやサングラスなどの小物をプラスするだけで、一気にリッチ感が出ることを知った。
インポートブランド(London)
Paul Smith
自主退職する前に担当したのが、「Paul Smith」(今、他メーカーがライセンス契約)シックなスタイルが好きだった私が、まさかの全身色柄コーデで、プリントの世界にどっぷり浸かった。無地しか着ないというお客様に、カラーやプリントを取り入れることで、ワードローブが新鮮になること、ファッションが楽しくなることを伝えた。